現代アート・音楽・感性/感受性・ものづくり

僕は現代アートが好きだ。現代アートの作品全てが好きという訳ではないが、あの表現の多様さ、自由さが好きだ。あ、こんな風に表現出来るんだ、していいんだという感覚。新たな形になっていない感覚を発見、体験する感覚だ。また、あの空間が好きだ。みんなが各々の感覚、思い出を、作品を通して楽しむ。その会場が、他の人には分からない、それぞれの独自の感覚で溢れる。心が感動で満たされる。我々は自分んの記憶を知らぬ間に書き換えている。良いようにも、悪いようにも。自分の中でその記憶を反復し、増長、収縮させていく。芸術を通して、過去をより良い方に書き換えることもあるだろう。

 

僕が旅をしていて毎回感じるのは、音楽の素晴らしさだ。彼らの言語は分からないが、彼らと同じ感覚を共有することは出来る。彼らは声を揃えて、その国の言語の歌を共有する。他の国民には見えない彼らだけの感覚がその場を包み込む。目には見えないものだからこそ、不思議な感覚が強い。音。それは、我々が普段形として捉えることが少ないもの。より”感覚”というものに依存した存在。その音で繋がった空間に自分も入りこむことで少しでもその時間を共有しようという試みである。特に人々の歓声はとても感動、影響を与えるのではないだろうか。全く性格や住んでいる場所の異なる人々を巻き込んで、一体となる感覚が人間の根源的な欲望を満たしている気がする。

 

良く、感受性が強いと感性が鋭いの違いについて考える事がある。感性が鋭いという言葉はよく芸術家や、強いこだわりを持った人に用いられ、感受性が強いとは様々な事を感じる事が多い人に用いられる。感受性が豊かな事により、多くの感覚を得た上で自分の感性を尖らせたいものだ。

 

芸術家は自分の独自性を突き詰めて尖らせるが、デザイナーは様々な需要や制限を考慮した上で、より多くの人の効用を高める仕事をしなければならない。職人や技術者、研究者もそうだが、彼らは自分の作品や作業に本当に丹念を込め、それらを愛する。彼らのそれに使った時間=価値である。彼らの作品を買うとき、それは彼らの生命、身体の一部を買うのと同じである。そして何にせよ彼らの感覚は尖っていなければならない。

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