アイデンティティー

自分とは、何でしょうか?

固有の名前を持った、今自分が感じている存在が自分でしょうか。体全体で自分でしょうか。他人がいなくても自分は存在するでしょうか。物質的には今ここに存在しますが、精神的には今にも、過去にも、未来にもいますし、いない事だってあります。こういう話をすると、「自分は自分だ!何があってもここにいる!」と言い出す人もいるかと思いますが、あなたはいつ、どこにいてもあなたを保てるでしょうか?あなたとは何ですか?名字と名前を持った、あなただけの経験を持った人ですか?誰それという両親から生まれてきた人ですか?確かに社会的にはそれで話が済みますね。しかし自分が自分であるという感覚は、その社会で通用する自分の定義からは得られず、それはもっと個人的で感覚的なものです。我々は生まれてある一定の歳になるまでは自分と他人の境界がわかっていません。なので小さな子供は、全部自分の思い通りにならないと気が済みません。なんでも思い通りになると思っている内はまだ精神的な自立ができておらず、社会的経験が少ない段階と言えるでしょう。徐々に親との接触やコミュニケーションを通して、「自分の体はどこまでなのか」や「他人という存在」を理解し始めます。そして自我が芽生えていくのですが、この考え方からすると、これはどんどん自分というものの定義が定まっていき寿命で生涯を終える時には、完全なる自分を理解しているのでしょうか。

・自分という存在は他人無しでは存在出来ないのではないか?

他人は自分の写し鏡とよく言いますよね。他人を関わる中でしか自分という存在を理解することができない。他人が全くいない無人島を想像してみましょう。存在するのは野生の動物と植物のみです。最初の数日は、その非現実的な世界に魅了されワクワクするでしょうがその後はどうでしょうか。徐々に退屈さを感じ始め、あなたは常に落ち着かなくなるでしょう。何かが満たされない、そんな感じで急に孤独感に苛まれるかもしれません。何故このようになるのでしょうか。それは我々には承認欲求というものがあるからです。承認欲求とは、我々が他人から何かしらの形で認められたいという欲求で、我々が自分自身の存在を感じられる理由となります。そのため人々は何かを通して自分を表現し、常に自分の存在を確かめたくなります。それは言葉や音楽、絵画など、全てです。それらを通して自分を確かめ、生きる意味を生み出します。自分というものを認識されなくなった、出来なくなった時人間は死ぬと思います。みんな深層心理では必死です。それに気づかず、自然にできる人もいるし、出来ない人もいると思います。とにかく我々には自分を確かに認識してくれる何かが必要です。あなたの自分の存在を認識させてくれるものは何でしょうか?家族の意義はそこにあるでしょう。切っても切れないし、切ってはいけないものだと思います。

 

また変な事を考えてしまいました。ではまた。

f:id:ShokaWorld:20190519074431j:plain