伝言ゲーム

昔から人々はゴシップが好きです。「近所のどこそこの家の息子が離婚した。」や「友達の誰それと誰それが喧嘩した。」など一見、一聞するとなんの生産性の無いモノにこそ人々はハマります。これは、これまでも、そしてこれからも変わらない人間の性なのではないでしょうか。オスカーワイルドも「歴史は単なるゴシップに過ぎない」と言ったように、歴史でさえゴシップと捉えられることもでき、ゴシップの定義と意義について考えさせられます。先日行ったロダン美術館でも、Camille Claudel(1864 -1943)が、4人の女性がゴシップをしている姿を掘った作品を目にしました。人々が集まりそこで会話をしているという日常を切り抜いた彫刻が、立派で、かつてはプライベートホテルであった現在のロダン美術館に飾られているのは、その安っぽさと豪華さのギャップに滑稽さを感じました。

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THE GOSSIPS OR WOMEN CHATTING

今日はゴシップの怖さ、そこからもう少し抽象的なコミュニケーションの怖さ、難しさについて少し書きたいと思います。ところで、僕の最近の息抜きは食事中に見るTerrace Houseで、つい一昨日、軽井沢篇を見終えました。徳井と山ちゃんのコメント、非常に面白い。NoahとSeinaが卒業した後、休日課長とりさこが入居してきた後のこと。女子3人の中で、”言った、言ってない”で揉め事がありましたよね。

 

・何が真相なのかについて

それが分かるのは、本人ではなく映像編集者だけだと僕は思います。つまり、その事実をその時点で客観的に見れる人のみです。何故なら彼らの記憶は彼らそれぞれに都合のいいように無意識に書き換えられているからです。例えばBさんがAさんに対してCさんについて話している、そして後日AさんはCさんにその事について話すという状況を考えた時に果たしてAさんは正確にBさんが言った内容を覚えていて、その通りにCさんに伝えることができるでしょうか。そしてCさんはBさんが本当に思っていた事をしっかりと受け取れるでしょうか。簡単な単語や文章をそのまま伝えるのであれば、それは可能かもしれません。しかしその内容が長く、Aさんの解釈を必要とする場合はどうでしょうか。Aさんから発せられる言葉は、Bさんから出た言葉がAさんの思考のフレームワークの中で捉え直されてから出てきています。またAさんの伝え方次第でBさんがどのようなテンションでどのように発したのかの、Cさんへの伝わり方は変わります。例えばAさんが楽しそうに話せば、Bさんもそのように話したように思いますよね。もしAさんがとても直接的な表現者であるのに対して、Bさんがあまり表現しないタイプの人間だった場合、Aさんの表現の仕方は正しく無い事が考えられます。

このようにしてゴシップは人々を経由する度に変容し、伝わっていってしまいます。

 

・コミュニケーションの難しさ

上記のようにゴシップによる風評被害というのはニュースなどで最近問題になっていますが、これらの本質を考えた時に、完全なコミュニケーションというのは無いという結論に達します。言葉の定義というのは、その人が、その言葉と出会った数によって変化します。なので、自分が話す「りんご」と彼が話す「りんご」というのは実際異なります。同様に英語で会話をしている時に自分が意味する"apple"と彼が意味する"apple"は異なります。また、辞書で、日本語で書かれた英語の定義を見てそのように理解したとしても、その国で実際にはそんな使い方しないと言われた経験がある人も少なくはないのではないでしょうか。言葉はより多く使えば使うほどより多くの人々に伝わるその人の言葉へと成長していきます。読書の大切さの本質が分かってくる気がしますね。

我々はとても不安定な言葉の綱渡りを常にしながら、日々コミュニケーションを取っているのです。

 

力尽きました。ではまた。