小切手の処理

小切手は、商品を取引する際に現金の代わりに用いられ、受取人が受取人取引銀行に持って行くことで、その銀行が振出人取引銀行に取立てを行い、振出人取引銀行から受取人取引銀行へ送金される。

 

【注意点】

・小切手を受け取った際の仕訳勘定は現金とし、銀行に取立て依頼をした際に当座預金勘定に振り替える。(※小切手を振り出す際は当座預金勘定)

・決算整理の際に金庫に未渡しの小切手が発見された場合は、行った仕訳の逆仕訳(当座預金/売掛金等)を行う

・決算整理の際に銀行勘定調整表と帳簿上の残高が不一致で原因が不明の場合は、雑損失/雑収入で処理する。

季節の変わり目

花粉が飛び始める頃、ワクワクと掴みどころの無い寂しさがむずむずとした情緒をもたらす。

一つのことに集中できる時期だが、その後は夢現の中に籠る。

暖かいのにチルいというのはどういうことだろうか。

センチメントが柔らかく緩やかに開くこの時期に僕は自然と詩を書きたくなる。

飛鳥という地

せめて一日だけ、現代から離れた場所に行きたいと思った。小学校の教科書で習った記憶。敢えて悠長な各駅停車に乗り、ただ朧げに揺られる。子供は車窓から霞む平野を眺め、いつのまにか微睡む。全く時間というものを忘れ、無限で悠久な日の明かりがあるのみである。知らぬ土地の時の流れに身を委ねることが、旅の1つの醍醐味である。


戒名

先日、祖父の49日が行われた。祖父家と私の家族で納骨をした。仏教徒では無いのでどこか形式的だと感じつつ、日本人が納得する方法は結局これなんだろうと腑に落ちもした。仏教では、死後は仏となり、性格と位によってお坊様から新たな名前が与えられる。祖父も新しい名前を授かった。葬式で最初に聞いた時は違和感を持ったが、今日は違った。死は我々が経験の無い漠然とした概念である。祖父が死んだと伝えられてからも、完全にいなくなったとは思えていなかった。これはつまり、我々が他人の存在を、視覚ではなくその個人の内面が生み出す一種の"魂"で捉えているということである。命は刹那的だが、"魂"は永遠的である。人の「死」を事実として認めさせるための、人類史上の試みの1つが「改名」なのだろう。位牌と墓石に掘られた祖父の新たな名前を見た時、本当に去ってしまったことを実感し、二度と帰って来ない「終わり」を認めた。違う世界に行くこと、そして終わりを認識することは改名と大きく関係があるんだと思う。


祖母の命日、家族で花を供えに行った。同時に久しぶりに祖父のことを思い出した。昨年の9月に亡くなってからまだ7ヶ月。久々に祖父の夢を見て、リアルに身体が思い出した。日々不安定に変化する体調について憂慮していた。自分に対してはいつも通り優しい。春、そして家族の温かさが眠っている感覚を呼び戻した。まだ生きている感覚を思い出して、どうしようなかった。

Sorry We Missed You

物流業界への内定の報告を尾崎先生に伝えた時にお勧めしていただいた作品。

1番胸に刻まれているのは、安定した家族を維持することの難しさだ。日常の同じ時間、共に生きてきた過去の記憶、そして人生を共有する支え合う家族だからこそ、困難な状況で簡単に歯車がずれ、崩れてしまう。ハッピーな場面も少しはあったが、不遇なことばかりが立て続いて、父も母も息子も娘も楽しかった記憶を持ちながらも、現状がおかしいと思いながらも、それに抗えず、巻き戻せず、みるみると崩れていった。一度も手をあげたことの無い父親が息子を殴ってしまうシーン、小学生の娘が幸せだった家族の関係を取り戻したい一心で父親の仕事道具であるバンの鍵を取ってしまいそれを告白するシーン、過度で思いやりの無い言葉を投げつける上司に対して母親が汚い言葉を吐いてしまい介護士としての自分の信条を破ってしまったことに対して泣き崩れるシーンなどは、心が締め付けられてきつかった。みんなでバンに乗って楽しかった頃の家族を思い出しながら楽しく過ごすシーンがそれによってとても鮮明に印象に残った。不幸な状況下にのみ垣間見える、何が幸せだったのかという核心。この家族の短命な幸せの光景がなんとも切なく、永遠では無いことは明白だった。

 

物流業界における人手不足は深刻で快適な物の動きの裏にはこうした人々が大勢いる。法律などはクソほどの建前でそれとは関係なく扱われている人がいる。綺麗事だけれども、この作品の家族が幸せになれない社会システムはおかしいと思うし、ケンローチ監督もそういうメッセージを込めているはずだ。家族全員で描けた幸せの形が彼らの希望であり生きがいであるが、それが叶わないと悟った時の悔しさはそれと比例もしくはそれ以上に残酷に何か不穏なものを突きつける。様々なシステムは開発されど、この様な現状はまだまだ確実にあり、ここにアプローチすることはとても意味のある仕事だと感じた。

 

最後に、誰かが言った次のような言葉を思い出した。「幸せは当たり前のことなのでその瞬間には分からず、失いかけて初めてそれが幸せだったらしいことに気づき、失って初めてそれこそが幸せだったことに気づく」と。これって結構核心ついた言葉だと思う。

夏を過ぎたあたりの風

夏空の下、ふと思い出した薄寂しい灰色のパリ。チュイルリー庭園では、不規則にばら撒かれた椅子の隙間を広葉樹林の枯れた葉が可憐に踊り、裏路地に隠れたバーのテラスでは、サングラスに漆黒のワンピースを着たマダムが肌寒そうに紙タバコをふかす。煙は早々に吹かれ、ほとんど真っ青な宇宙に飲み込まれた。エッフェル塔では若い男女がアムールを交わし合う。それと同時にエッフェル塔裏の横断歩道を渡る老夫婦が "C'est la vie." を思う。